トラメモ Vol.5

Traditional & Memorial Tournament Vol.5

60回を迎えた中日クラウンズ。
日本ツアーをけん引し、新たな時代へ

JGTOツアー春のビッグトーナメントの一つ「中日クラウンズ」が、今年60回目を迎えた。日本の民間トーナメントで最も歴史が長く、 “東洋のマスターズ”とも呼ばれる権威ある大会だ。その大会の歴史と歴代レジェンドの活躍、今年の記念大会の様子などをレポートする。

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第1回大会からテレビ生中継
トーナメント中継の先駆けに

1番ティーには名古屋城のティーマーク

1番ティーには名古屋城のティーマーク

中日クラウンズの前身となる「中部日本招待全日本アマ・プロ・ゴルフ選手権大会」がスタートしたのは1960年のこと。初代中部日本放送社長・佐々部晩穂氏の「名古屋の人たちに、世界一流のプロゴルファーを呼んで、最高レベルのパワーとテクニックを見せてあげたい」という情熱が結実したものだった。

霞ヶ関カンツリー倶楽部(埼玉県)でカナダカップ(現在のワールドカップ)が開催され、日本チームが団体優勝したのは1957年。これを機に全国的にゴルフ熱が高まってきた時期で、佐々部氏が新しいゴルフトーナメントの開催準備を始めたのもこの時期と合致する。日本のゴルフ界が大きく動き出した時期だったのだ。

第1回大会に出場したのはプロ42人、アマ12人の54人。一民間トーナメントだったにもかかわらず、賞金総額170万円、優勝賞金50万円で、これは当時の日本オープンをも上回る額だった。ちなみに、初代優勝はカナダカップにも出場した中村寅吉プロだった。

第1回からテレビ生中継が行われたことも、中日クラウンズの大きな特徴だ。人気は徐々に高まりつつあったものの、当時はまだマイナー競技だったゴルフ。クラウンズの生中継では、ゴルフの競技ルールの説明なども織り交ぜながら放送されたという。現在のゴルフ中継の礎は、本大会が作り上げたと言っても過言ではないだろう。

大会は、回を重ねるごとに佐々部氏の熱意に共感した地元企業のバックアップが増加。特にトヨタ自動車は優勝副賞として第2回大会からパブリカを、第6回大会からクラウンを提供するようになり、現在まで続いている。

「クラウンズ=和合」の陰には
名古屋の他クラブの協力があった

トヨタ賞(優勝副賞)のCROWN

トヨタ賞(優勝副賞)のCROWN

中日クラウンズといえば、名古屋ゴルフ倶楽部和合コース。今ではこの両者は、切っても切れない関係と言えよう。

しかし、大会黎明期には複数のコースが使われた。第1、2回は和合、第3、6回は愛知カンツリー倶楽部東山コース、第4、5回は三好カントリー倶楽部、そして第7回に和合に戻り、「中日クラウンズ」と大会名称を変更。以来、大会名称も開催コースも不動のものとなった。

そもそも佐々部氏が理事長を務めていた縁で第1回大会は和合で開催されることになったが、土日にメンバーがプレーできないなど、一部には反対の声もあった。しかし、徐々に協力的なメンバーも増え、倶楽部内にはのちに「クラウンズ会」と呼ばれる会が発足。中日クラウンズ開催へ、大きなサポートを続けてきた。また大会開催中、開催コースのメンバーを他のクラブが受け入れるという「名古屋方式」という互助システムも発生。名古屋近隣のクラブが協力し合ったことが、中日クラウンズの今日の隆盛につながっている。

名古屋ゴルフ倶楽部和合コースは、今年の大会でも6557ヤード・パー70。道具が進化し、選手の飛距離が大きく伸びた現代にあって、このヤーデージはかなり短いと言わざるを得ない。それでもいくつかのマイナーチェンジが行われただけで、大会初期から大きなコース改造はなされていない。名匠・大谷光明氏が設計し、のちに上田治氏が改造した和合が、いかに完成度の高いコースであったかを物語っている。

クラウンズが長く選手に尊ばれ、ファンに愛されるのは、難攻不落と言われる和合の魅力も欠かすことはできない。

大会を制した“クラウンズ男”には
レジェンドたちが名を連ねる

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“東洋のマスターズ”とも呼ばれ、世界のトッププロが参戦してきた中日クラウンズ。その戦いの記録を紐解けば、多くのレジェンドたちの熱いプレーがよみがえってくる。

初代“クラウンズ男”といえば、安田春雄プロだ。1968年、9ホールに渡る壮絶なプレーオフを制し史上最年少優勝。一躍スターダムにのし上がり、その後も日本のトッププレーヤーとして長く活躍した。

1978〜80年は、青木功プロが大会3連覇(通算5回優勝)を果たした。80年には全米オープン2位、また78年から4年連続で日本ツアー賞金王に輝くなど、全盛期だった。クラウンズから“世界の青木”が生まれたのだ。

一方、尾崎将司プロがこの大会で初優勝したのは1987年で、40歳の時だった。故障からくる長いスランプを抜け、ようやくつかんだクラウンズの栄冠は、プロゴルファーとして彼が大きく羽ばたくきっかけとなった。その後、1995年〜97年には本大会3連覇の偉業を成し遂げている。

2004年には片山晋呉プロがツアー15勝目を本大会初優勝で飾り、2010年には石川遼プロが最終日にノーボギー・12バーディ「58」という世界最少スコアを樹立。首位と6打差を大逆転した。また、2017年は名古屋在住の宮里優作プロが、最終18番で6メートルのバーディパットを決めて優勝している。このように中日クラウンズは、その時代をリードするトッププレーヤーたちが、印象に残る勝利を収めている。

海外の猛者たちも数多く参戦した。過去にはG・プレーヤー(1973年、74年)、A・パーマー(1974年)、J・ニクラウス(1984年)など、世界的名手が名を連ねる。その中で優勝を果たしたのは、G・ノーマン(1989年)、S・バレステロス(1991年)、J・ローズ(2002年)ら。実力に加え、最高のコンディションで臨まなければクラウンズには勝てない。今も昔も、世界の名手にとっても、この大会は大きな壁となっている。

60回大会を記念した
数々のイベントが大好評

名誉スターターを務めたJGTO青木功会長

名誉スターターを務めたJGTO青木功会長

今年で60回目の節目を迎えた中日クラウンズ。これを記念して、今大会ではさまざまな記念イベントやプレゼントが行われた。

多くのファンを喜ばせたのは、JGTO会長で、クラウンズには欠かせない名手・青木功プロが名誉スターターを務めたことだ。ティーイングエリアでは、本戦に出場する尾崎将司プロや石川遼プロらとの掛け合いもあり、集まった6000人以上のファンを笑顔にさせていた。

また、来場したギャラリーには、60回記念大会特製エコバッグが贈られた。大会ロゴとともに、過去59回の歴代優勝者の名前が入ったバッグは、ゴルフファンにとってプレミア感たっぷりのプレゼントとなった。

60回大会の優勝を果たした宮本勝昌プロ

60回大会の優勝を果たした宮本勝昌プロ

石川遼選手会長の発案で始まり、他大会でも大好評となっているピンフラッグ企画も行われた。今大会のピンフラッグは、60回記念大会オリジナルロゴ入りの今年限定バージョン。このフラッグを購入し、選手のサインを集め、自分だけの観戦記念グッズにできるというものだ。

他にもトーナメント参加プロによるジュニアレッスン会、サインボールプレゼント、有料のロープ内観戦ツアーなども実施され、多くのギャラリーが楽しんでいた。

試合は、ベテランの宮本勝昌プロが大混戦を制し、9アンダーで優勝。優勝賞金に加え、60回記念大会優勝特別賞として600万円が贈られた。

60年前の第1回大会から、常に日本ツアーの王道を歩み続けてきた中日クラウンズ。その歴史は、日本のゴルフ史に残る数々の名勝負の歴史でもある。これからも創始者・佐々部氏の熱い想いに応え、日本ツアーをけん引するトーナメントとして、その役割を果たしていってくれることだろう。

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