舩越園子のWorld Golf FUN FAN REPORT 2020.3月号

未来のための「前向きな妥協点」

文/舩越園子(ゴルフジャーナリスト)

飛距離を武器に戦うウインダム・クラーク

飛距離を武器に戦うウインダム・クラーク

今年のウエイスト・マネジメント・フェニックス・オープンは大会直前にヘリコプター事故でこの世を去ったNBAのレジェンド、コービー・ブライアントを弔う大会となった。TPCスコッツデール(米アリゾナ州)の大観衆が故人を偲んだその陰で、2人の米ツアー選手が、それぞれ「光」と「影」の運命を辿った。

26歳の米国人、ウインダム・クラークは2019年から米ツアー参戦を開始した若者だ。昨年のフェニックス・オープンでは補欠として待機。結局、出番は回って来なかったが、名物ホールの16番(パー3)を観客席から眺め、割れるような拍手と歓声を初めて体感。「ここで戦える選手になりたいと思った」

クラークは一層の努力を積み、今年は同大会出場が叶った。初日からリーダーボードを駆け上がる好発進を切り、決勝進出も果たして34位タイ。クラークをわずか1年で陽の当たる場所へ押し上げた最大の要因は平均で309ヤードを上回る彼の絶大なる飛距離だ。

一方、34歳の米国人、コルト・ノストは、今年のフェニックス・オープンで予選落ちが決まった途端、現役引退を表明した。2007年全米アマチュアを制し、鳴り物入りでプロ転向。下部ツアーでは2勝を挙げたが、米ツアーでは一度も勝てずじまいになった。

ノストが苦しんだ最大の要因は飛距離が出ないこと。それでも彼は飛距離不足を正確性や小技で補おうと踏ん張っていたのだが、ついに精根尽き果てたのだろう。

「ゴルフは変わった。みんな軽々飛ばすけど僕はどうやっても飛ばせない。だから引退する。でも、それでも僕はゴルフを愛している」

そう語ったノストの表情には、無力感と悲哀が漂っていた。

「飛距離」を武器に前進しているクラーク。「飛距離」に泣き、去っていったノスト。彼らの運命が正反対に分かれた翌週、2月4日にUSGAとR&Aから「ディスタンス・インサイト・レポート」が発表された。もしも、同レポートが5年、いや10年前に出され、そのときからゴルフ界に少しばかり異なる流れが起こっていたら、2人の選手の運命も、もしかしたら変わっていたのかもしれない。

「正しい」「誤り」ではなく

全112ページに亘る分厚いレポートの中で最も強調されているのは、タイトルにある通り、「distance」、つまり「距離」「飛距離」というものが、ここ20年超の間、ゴルフを望ましくない方向へ導いてきたという見解だ。

飛ぶクラブ、飛ぶボールの開発合戦が激化し、プレーヤーは正確性を犠牲にしても飛距離を伸ばすことに躍起になり、飛ばし屋対策としてゴルフコースは次々に伸長されていった。そうした飛距離偏重やパワーゲーム化が人々をゴルフから遠ざけつつあり、「コース伸長は有害である」とした同レポート、そしてUSGAのマイク・デービスCEOの言葉に衝撃を覚えた人は多かったはずだ。

賛否両論。一早く批判の声を上げたフィル・ミケルソンは「がんばって得たもの(飛距離)が否定されるのは受け入れがたい。努力してきた道を逆戻りしろということか?」と憤慨している。

米PGAツアーは「未来の解決策を協力して探っていきたい」とした上で、「現在のプレーヤーは飛距離だけではなくワザも兼ね備えている」と付け加えた。

そう、米ツアーの戦いの舞台の中には短めの設定ながら面白い展開になる大会がいくつもある。AT&Aペブルビーチ・ナショナル・プロアマはその典型。昨秋、日本で開催されたZOZOチャンピオンシップも7041ヤードと米ツアーでは短い設定だったが、人々はタイガー・ウッズをはじめとする米ツアー選手たちの熟達したワザや攻め方に酔っていた。

そう考えると、コースを伸長すること、距離を求めることばかりが正しい方向ではないという同レポートの主張には「なるほど」と頷ける。

しかし、多くのゴルファーは、スコアリングの決め手がショートゲームであることやパット・イズ・マネーであることを頭で理解していても、やっぱりスター選手たちの豪快なビッグドライブを見たくて会場に足を運び、ダイナミックなゴルフが披露されるメジャー4大会のTV中継に夢中になるのではないだろうか。グレッグ・ノーマン、フレッド・カプルス、ジョン・デーリー、タイガー・ウッズ、ダスティン・ジョンソン。時代を象徴するスター選手たちは、みな魅力的な飛ばし屋だ。私たちが歩んできたその歴史が、実は誤った方向を向いていたと思いたくはない。

とはいえ、土地、人、モノ、時間やエネルギーに「限界がある」という同レポートの指摘は的を射ており、限りあるものの限界点を超えてしまわないよう、それらとゴルフの共存共栄の道を探る必要はある。

つまりは、どこに前向きな妥協点を見出すかということ。「正しい」「正しくない」ではなく、過去と現在にリスペクトを払いつつ、未来を見据えていくべきではないだろうか。